はじめまして
このサイトの管理人のmARUTAです。
このページでは、私の簡単な音楽遍歴と想いみたいなモノをお伝えできればなと思います。
結構長編になってしまったのでご興味ある方のみお読み下さいm(_ _)m
音楽は苦手だった幼少期
私が初めて楽器に触れたのは4歳の時、触れたというより触らされたという方が正しいかも知れません。
私の両親は全く音楽に縁が無い平凡なサラリーマン一家でした。
もし私が小学校、中学校に進学した際に音楽の授業が分からないから教えて欲しいとせがまれても教えることが
出来ないからという理由で無理やりピアノを習わされました。
「ピアノを習っているなんて女の子みたい」と友達からからかわれるし、
ピアノのレッスンに行く日が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
そんな気持ちで通っているからか全く上達することはありませんでした。
小学校5年まで約7年ほど通っていましたが両手で弾くこともできずに終わっています笑
片手でもバイエルの練習曲を弾き切ることも出来ませんでしたし、楽譜も当時は読むこともままならない状態でした。
あまりに上達しないので習っていた先生がしびれを切らし、怒った先生に私は手を叩かれた記憶もあります。。
そういった辛い経験をしてきたので音楽には苦手意識しかありませんでした。
夢中になったヘビーメタル・ハードロック
私が音楽に興味を持ちだしたのは高校生の時です。
当時はGLAYやラルクアンシエルなどビジュアル系ロックバンドが全盛でした。
変わり者だった私は流行りの音楽には目もくれず70年代、80年代に流行っていた
ヘビーメタルやハードロックを聴いていました。
今でこそ音楽をはじめファッションなども多様化してきましたが当時はテレビ、ラジオなどのメディアが全盛の時代。
生意気だった私は当時から俯瞰した見方を持っていて、大手レコード会社やそれに付随する企業がテレビやラジオを使って流行を作っていて周りはそれに踊らされているだけに過ぎないと考えておりました^^;
それに反発する意味でも流行歌は聴きたくないし、イメージにとらわれずに本当に自分が好きな音楽は何だろうと追及した結果70年代や80年代のヘビーメタル、ハードロックにたどり着きました。
よく聴いていたのは洋楽ですとアイアンメイデンやMANOWAR、ジューダスプリースト、邦楽ですと聖飢魔Ⅱやラウドネス、アンセムなどをヘビロテしてました。
周りの友人とは趣味が全く違うため、いつも孤独感を感じておりましたね^^;
友人のデモ音源を聴いて味わった挫折感
そんなヘビメタキッズだった私は高校1年生の冬からエレキギターを購入し練習に明け暮れていました。
私が弾きたかったのはヘビーメタル、ハードロックのかっこいいリフ。エフェクターでディストーションを効かせ、ガンガンに歪んだ音でリフの練習ばかりしてました。
コードがどうとか、音楽理論はよく分かってなかったです^^;
私は高校2年の時にハンドボール部に所属したのですが、そこでT君と出会いました。
T君はハンドボール部以外に軽音楽部に所属しているバンドマンでした。
彼は小学校時代から音楽に興味を持ち自らピアノを習い、中学校に進学してからエレキギターを弾き始め、私が出会ったころには自分で作曲し、当時はDTMはおろかパソコン自体普及率は低かったため、MTR(マルチトラックレコーダー)という多重録音できる機材でデモテープを作っていました。
T君の家に行ったときに「今こんな曲を作っているだけどどうかな?」と言ってサラッとスピーカーから彼が流すデモ音源に衝撃を受けました。
ギターの音だけでなくドラムやベースまでリズムを刻みながら流れてくる軽快な音。当時は前述の通りGLAYやラルクアンシエルなどが流行っていましたがまさにそれらを彷彿させる王道ロックサウンドがまるでCD音源のように流れてくる。。
「これを本当に一人で作ったのか?こんなのを作れるなんてどんな頭してるんだ?」と彼の事を尊敬の眼差しで見るようになりました。
それと同時に到底昔から音楽をやってきた音感や才能ある人には叶わないなと感じ、ピアノを7年やっても両手でも弾けないような私は頑張っても到底彼の足元にも及ばないなと強烈な挫折感を味わい、ギターを弾く事態、恥ずかしくなってきて数日後辞めてしまいました。。
今でもあの時の衝撃は昨日のように覚えています。
才能が無い人間がどこまでやれるのかという好奇心
それから大学受験を終え、私は音楽とは全く縁のない普通の4年制大学の工学部に進学しました。
大学に入ると講義も一日一つしかない日もあるし夏休みも2カ月ある。自由な時間を持て余す日々に突入しました。
社会人になれば会社に尽くすため自由な時間は無くなることは何となくわかっていたので、この4年間しか出来ない自分が以前からやってみたかったことをやろうと考えました。
自分がしたいこと、やってみたいことって何だろうと自問自答した結果、浮かんできたのは高校時代の同級生Tくんのあの衝撃的なデモでした。
前述の通り、私には音楽の才能なんて無いし普通だったら挑戦しようと思わないかも知れません。
私は変わり者なので一度切りの人生、普通の人がやらない無謀なことをやってみたいという想いがあり
「音楽の才能のない人間が作曲に挑戦し続けたらどうなるのか?ちゃんと曲が作れるようになるのか?」
この疑問の実験台として私の人生を捧げてもいいかなと思うようになり次の日には気づいたらアコギを購入してました^^;
当時は今のようにYoutubeも発達していなかったので作曲や編曲に関する情報は少なかったので独学で勉強するしかありませんでした。
唯一作曲経験者に質問できるとするならば2ちゃんねるの掲示板でしたね^^;
ときどき間違った情報に踊らされることもありました。。
どうやったら作曲ができるようになるのかが全く分からなかったので本当に実験という感じで手探りで「こんな練習してみたら作曲できるようになるんじゃないか?」と思いついた練習や勉強をいろいろやってました。
今考えると無駄な練習や勉強がほとんどかも知れません。(笑)
大学4年間で出来た曲はわずか1曲^^;
大学在籍時は暇があったら音楽と向き合い、作曲のことばかり考えていました。
しかしいざ自分で作ろうとして購入したDAW上で録音等してみても「何か違うな」と言ってはボツにしての繰り返しでした。
結局、大学を卒業するまでにちゃんと作り切れた曲は1曲だけでした。^^;
高校時代、あれだけヘビーメタルやハードロックを聴いていたのでそういう方向性の楽曲を作っていたと想像されるかもしれませんが、楽曲を作るということに関しては新しいものを作りたいという想いがあってヘビーメタルやハードロックではない当時に受け入れられるものを作りたいと思って模索しておりました。
高校時代に思っていたこととは真逆かもしれません。笑
時代に合わせたものを作らないと誰にも聞かれないと大学時代には思うようになり、好きでなくても流行りのJ-POPやアニソンなどを聴くようになりました。
ですが聴いているうちにやはり徐々にJ-POPやアニソンが好きになってきましたね。
中でもユハラユキさんが特にお気に入りでポップだけど若干ロックで当時流行りだしたピコピコサウンドともマッチしていて耳コピしてDAW上で打ち込んだりしてました。
ジャズやスカとの出会い
大学卒業後、私は東京の会社に就職することになりました。
上京すると環境はガラリと変わり、一歩外に出るとミュージシャンたちがあちこちで路上ライブをやっていたり、1駅行けば作曲などを教えている音楽教室がある。
私は上京してすぐに本格的に作曲の勉強をするため、プロミュージシャンが個人でやっている音楽教室に通うことにしました。
その先生はソウル系の音楽をメインに活動しているギタリストさんで、彼の奏でる音に衝撃を受けました。
同じ7thコードでも極力余計な音を省いたボイシングでコードを抑え、コード一発でオシャレでカッコイイ!!と思える。
ヘビーメタルやハードロックとはまた違ったカッコよさを感じました。
今思うとこの先生との出会いが、私が現在作っているジャズやエレクトロスウィングの基礎にもなっていると思い、とても感謝しております。
またその頃、毎週金曜日の新宿駅で路上ライブを行っていたZ旗というバンドに出会いました。
彼らはのジャズやスカを奏でるブラス編成のバンドで、それまで聴いていた音楽とは全く違う世界観というか新宿の夜が似合う大人の色気が漂うカッコよさを感じておりました。
本当に毎週彼らの路上ライブを観るために金曜日の夜は新宿駅に出向いていたし、メンバーの方と顔なじみになって気さくに話しかけて下さったのが今でも嬉しい思い出です。
当時、私は20代前半の若僧でしたが、「大人になったら絶対にジャズやスカをやっていきたい!」とこの時、強く誓ったのを覚えております。
10年続けたら状況が変わってきた
そんなこんなで楽曲制作を仕事の傍らほそぼそと続け、気づいたら10年くらい経ってました。
その頃から自分でもやっと満足できる楽曲制作ができるようになってきました。
長くかかりすぎじゃね?と思われるかもしれませんが元々音楽的な才能もスキルも無い人間だった私。
始めた当初は思い通りに作曲なんてできるようになる保証もないし自分には無理なんじゃないかと何度も挫折しそうになったしようやく形になってきただけで本当に嬉しかったです。
特に周りのミュージシャンに聴いてもらって「このトラックカッコイイね!」だとか「センスあるんじゃない?」と言われるようになったことが本当に10年やってきて心の底から良かったと思った瞬間でした。
その当時は関西に戻ってきていてそこで通っていた音楽教室内の楽曲コンテストで最優秀賞を頂くまでになってました。
本当に継続は力なりとはよく言ったものです。
勢いでコンペで採用を勝ち取る!音楽熱は高まるも….
周りから評価されると自分の実力を試してみたくなり2014年頃、当時クラウドワークスやランサーズなどクラウドソーシングサイトが立ち上がったばかりで音楽系のお仕事の募集も掲載されていました。
ほとんどコンペ形式が多かった気がします。もちろん今でもクラウドワークスやランサーズは存在していますし、お仕事を頂くことはありますがその当時の方が盛り上がっていて募集も多く掲載されていたように思います。
そこで自分の腕試しでコンペに応募してみることにしました。
なんと初コンペでいきなり採用を頂き、そこから継続案件を頂くことになりました。
正社員の仕事を持ちながらだったので本当に忙しく寝る間を削ってお仕事させて頂きました。
また音楽事務所と繋がりを頂いたり、FM局のラジオ番組で自分の楽曲をかけて頂いたり雑誌インタビューのオファーを頂いたり本当に10年前の自分では考えられない夢のような展開が訪れることになりました。
しかし音楽事務所から楽曲提供のお話が来た時、ちょうど本業の方の仕事が忙しかったため断らざるを得ませんでした。
これは私にとってとても残念な決断でした。そういう依頼が来るようになれば音楽一本でやっていく決断はしなかったの?と思われるかもしれません。私にはここで音楽一本でやっていくぞ!という覚悟はまだありませんでした。自分自身、依頼が来るようになったといってもまだまだだと思っていましたし、不安要素も多くありました。
ですがどうしても音楽に費やせる時間を増やしたいと思っていました。毎朝7時半に家を出て1時間かけて出社し、9時から21時くらいまで本業の仕事をこなし22時半くらいに家に帰宅し、ご飯を食べて風呂に入って結局0時から音楽の時間になり、寝るのは2時とか3時でした^^;
そうやっていると体が限界に達し、様々な体調不良を引き起こし始めました。特にずっとパソコンを観て作業しているので目の奥が常に痛く
痛み止めの薬は手放せませんでしたし、自律神経失調症やうつ症状を引き起こしておりました。
そこで音楽が出来る時間を確保するため、家で出来る仕事に切り替えようと考え、一旦音楽活動はストップし物販業を副業としてはじめることにしました。
物販のお仕事が上手くいけば本業の仕事が辞められるし、音楽の時間は十分に確保できるようになる。
そう考え、敢えて音楽活動を休止することを選択しました。
しかし、これは大きな間違いのもとでした。
リスクを取れず病状は悪化、結局すべてを失う…
物販業は最初は順調でしたが、やればやるほど赤字を出すわけにはいかないプレッシャーで
結局音楽を並行してやっている時よりも忙しくなり、休みが全く取れない状況となってしまいました。。
物販業が順調だったらすぐに会社辞めれば良かったのにと思われると思いますが、本当にその通りです^^;
しかし物販は固定で給料が入ってくるわけでもなく安定しないお仕事に分類されると思いますが、そこが私が辞める決心がなかなかつかなかった理由です。
あと、なんといっても精神的に限界が来ていましたね。。
本業を辞めた瞬間から上手くいかなかったらどうしようとか考えだしたら切りがない心配ばかりしていて今考えると不安神経症や強迫観念がマックスだったんだと思います。
結局物販業を行うことによって体力的にも精神的にも限界に達し、本業にも影響が出てきてしまいました。
それによってミスを連発し他の従業員にもご迷惑をおかけすることになり、そこでやっと責任を取る形で本業を辞める決心がつきました。
しかし本業を辞める決心がついたと同時に、まずは病気を治すため療養が必要だろうと感じ、結局物販も続けていくことは難しいと判断し物販も辞めることにしました。
音楽活動も既に休止していたため、自分に残ったものは何も無く、結局すべてを失うこととなり、どん底の底を経験しました。。
世界がパンデミックで混沌としている中、光が見えた
先が見えない中、世界情勢はというと中国で2020年2月頃新型コロナウィルスが蔓延し、日本にも旅客船を通じて感染者が広まり各国を巻き込んだパンデミックになりつつある状況でした。
一見すると、どん底の私に追い打ちをかけるかのような状況下、、しかし私はこのことがきっかけで光が見えたと確信しました。
元々私は歴史が好きで、過去の歴史をさかのぼると、疫病が流行る時に人々の価値観は一新され、生活スタイルが変化していくことをよくわかっていました。
例えば奈良時代、聖武天皇の時に天然痘が流行り、生活が苦しくなった農民の墾田意欲を高めるため、耕した土地は永年私財化される墾田永年私財法が制定され土地を耕すことにより価値が生まれることになったし、中国の三国時代もそれまで統治していた後漢王朝に対する人々の不満が疫病蔓延によって一気に爆発し黄巾の乱が起こり王朝が崩壊、魏・呉・蜀の三国に分かれる時代に突入したりと疫病がそれまでの政治や風習を大きく変えることに繋がってきました。
このようなことから大きく時代や今までの価値観がガラリと変わっていくことが予期できたし、周りを見渡すとYoutuberやインスタグラマー、働き方も多種多様になってきているし、やりたいことがそのまま仕事になる波はこのパンデミックをきっかけに加速してくると考え、もう今後は音楽一本でやっていって大丈夫だと確信でき、音楽に全力投球していく決心ができたのです。
自分がやる音楽をも断捨離することにした
今までを振り返った時、本業をやりながら音楽をすることを選んだり、本業を辞めるにしても物販である程度稼げるようになってからにしようとか、自分自身保険をかける癖があることがよくわかりました。
それは音楽についてもそうでした。ロックだったりポップスだったりR&B、ジャズ、ソウルすべてに対応できるオールラウンドプレーヤーになろうとしていました。
もちろんそういった素晴らしいミュージシャンはいくらでもいらっしゃるし、今でもそういう方は心の底から本当に凄い!と尊敬しております。
しかしこれまでの過去の失敗やパンデミックをきっかけにやりたいことを絞らないと一つも得られないしすべてを打ち消しあって失うことになりかねないことに気づきました。
ちょうどそのタイミングである方に「”なんでもできます、なんでもやります”は”なんにもできません”と言っているのと同じ」と言われ、過去の自分だったら反発しただろうけど、その言葉を聞いて本当にその通りだと思えました。
なのでやりたい音楽もこのタイミングで絞ることにしました。
ここからは一生捧げてもいい音楽のジャンルで勝負していこう!そう思った時、前述した通り「大人になったらジャズでやっていこう」というタイミングは今なんじゃないかと感じジャズテイストの楽曲専門で作っていこうと決心しました。
そう決心してから本当にありがたいことに各方面からお声掛け頂くことが多くなりご依頼、ご予約でスケジュールが2カ月先まで埋まることを経験させて頂き、全く光が見えない手探りの状態でしたが続けてきて良かったと心の底から関わって下さる皆様に日々感謝をしておりますm(_ _)m
Z旗に出会って以来ずっとジャズやスカは好きでよく聴いてましたが特に衝撃的だったのが2015年くらいにビレッジヴァンガードで出会った「エレクトロスウィング」でした。
それまではジャズとEDM系の音ってそこまで相性が良いと思ってませんでした。
1920年代のジャズのレトロサウンドがここまで現代音楽にマッチするんだという点も衝撃でした。
ダンスも本当にかっこいいし、スカでバンド編成するにしてもそれなりの人数を集めないといけないのに対し、エレクトロスウィングだと最小限だとシンガーとDJという2人編成でも行けるし、自分がプレーヤーとしてやっていくことを考えても利点が多いと感じました。
過去にバンドなんかもやっていましたがやはり人数が多ければ多い程、息を合わせていくのは大変ですからね^^;
2015年くらいに出会ってから7年ほど経ちましたが日本でもまだそこまで広まっていないというか、ずっとくすぶっている状態であると感じています。
日本でエレクトロスウィングを広めるため、またジャズが好きな方と交流できたら良いなという想いからこのサイトを立ち上げました。
最後に
最初は簡単に自分の音楽遍歴をまとめようと思ってましたが、めちゃくちゃ長くなってしまいました^^;
最後まで駄文に付き合って頂き、本当にありがとうございました。
何が言いたかったかというと、音楽に長年向き合ってきましたが結局、夢を実現させるのに持っているポテンシャルや才能なんて関係ないんじゃないかということ。崖っぷちであろうが可能性があろうが無かろうが関係なく、ただ単純に「やるか、やらないか」だということが私の人生をかけた「才能ない人間が音楽やり続けるとどうなるのか?」という実験の一次回答で、今後もこの実験は続いていきます。
このサイトやここで書いたことが誰かの勇気になったり励みになればとこれ以上のことは無いですし、共感できる部分があればメッセージ頂けたりすると嬉しいなと思っております。
また展開があれば追記していきたいと思っておりますのでどうぞよろしくお願いいたします。